代表 | 大島 利夫 |
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住所 | 大田区南六郷 |
7つの道が交じり合う交差点“七辻”にお店をかまえる「大島商店」。大田区蒲田に位置するこの地は、東京大空爆で焼け野原になったとは思えない程、ひっきりなしに車や人が行きかうところです。50年近く“七辻”に面してお店を切り盛りしてこられた大島さんに、いろいろなお話を伺ってきました。
“七辻”とは珍しい交差点ですね。
本当にね。なんだか、日本に2つしかない交差点みたいですよ。珍しいから、テレビの撮影やラジオの取材なんかもよく来ますね。七つも道があれば、道を尋ねる人も多いんですよ。教えてから、お礼を言って歩いていくけど、教えた道とは違う道の方に向かっていくわけですよ、道路に番号をつけて簡単に説明できるようにしたいよ。
ここで何年くらいご商売されているんですか?
昭和26年からだから、50年くらいかな。兵隊から帰ってきてここに移ってきて、最初はおやじがたばこ屋を始めたんですよ。
私の代にになると、たばこと家庭菜園の種を売ってました。種なんかは、始めた頃は全然売れなかったんだけど、ひょんなことから台風がやってきてね、今まで植え付けていた作物が全部だめになって、うちに買いに来たわけ。そしたら、うちの種がばかに良く育つもので、いちやく評判になっちゃって、それから毎年売れるようになって、仕入れに行くのも大変だったよ。
今は文具とたばこ、切手などを扱っています。
終戦当時、この辺りはどんな感じだったんですか?
戦前、戦中ごろは軍需工場ばっかりで、終戦後は空爆で工場もなくなって焼け野原で周りに何もなくて、雑色の駅を曲がった途端に家が見えたんですよ。ここから富士山も見えたからね。それ位何もなかった。それからは段々復興していって、この近くには昔、映画館が4つもあったんですよ。
たばこのストックがたくさんありますね。
うちは本当にたくさんありますよ。
まとめ買いのお客さんが多くて、切らさないように気を付けてるんですよ。よそでは置いてないたばこも結構あって、遠くからいらっしゃるお客さんもいますよ。
カウンターのウィンドウは昭和47年からずっと使ってますよ。種類の豊富さをアピールするためにもっとウィンドウを増やしたいんだけどね。
毎日お忙しいですか?
ええ、おかげさまでね。
たばこ組合の理事になったのが昭和48年で、あのころはたばこ消費税って言ってたんだけど。
郵便の方も会長をやってて、平成9年に勲6等単光旭日章を頂いて、皇居に行って陛下から勲章を頂いたんですよ。あれは感動的で、涙が溢れてきました。
それと、日本舞踊を30年やってます。いろんな人に出会えて本当に楽しいですよ。何事も役をやってれば自分も勉強になるしね、元気でやってくことができるんですよ。
今と昔で、何か変わってきたことってありますか?
世の中が会話したくないのかなって感じますね。駅でも自動販売・改札でしょ、寂しくなったね。
この間電車乗ったら、若い女の人が席譲ってくれて、複雑な気持ちだったんだけど、せっかくの好意に悪いから、『ありがとうございます』って座らしてもらったんですよ。それから、隣があいたからその方が座ったんですよ。私は『さっきはありがとうございました』ってお礼言ったんだけど、それだけだよね。その後会話するんでもなく、昔だったらそこから世間話なんか始まったりしたんだけどね。
周辺案内
七辻の由来 ~おもいやりのある交差点~
七本の道路が交差した地点という意味で名付けられたもの。
大正6年から10年の歳月をかけて行われた耕地整理によって完成したもので、そのころは、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、人家もまばらで水田と桃・梨・ぶどうなどの果樹を植えた畑が広がり、春には花見客でにぎわったという。
昭和の初期までは、農家の大八車が時折通るだけで七辻の道路も当時としては道路が広すぎ、その両側には名もない草花が生い茂っていた。
時代が移り変わり、多くの人々が住むようになってからも自然を愛し、やさしさと思いやりのある心は受け継がれ、この地に事故はない。
それぞれの角にはヘアーサロン、歯科医、寿司屋、焼き肉屋、青果店、クリーニング屋、たばこ屋がある。
編集後記
「日本一優しさと思いやりのある交差点」という土地柄だけに、ご主人の大島さんのやさしい笑顔と、ちゃきちゃきの江戸っ子のような、ハキハキとした喋りっぷりは、周りの人も巻き込んで元気にさせてくれます。博打以外はカラオケもお酒も何でも大好きだとおっしゃるご主人は本当にお元気でとても79歳にはお見受けできませんでした。“七辻”という貴重なこの土地で、きっとこれからも末永くお店を繁盛さていくに違いないでしょう。